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本屋について考えたら
ライター渡部のほうです。

スパルタ美術学校の妄想はこの辺でやめることとして(いや、また妄想がぶり返してくるかもしれないけど)、実際の学校、私が教員として勤務している東京造形大学で出した課題「本屋さんのCI計画」について。

町中の書店がどんどん減っているいる今、既存の書店の問題点や課題を考え、それを解消するような書店を新しく考える、というテーマを去年と今年課題として出した。

この課題を考えた当初は、オンラインショッピングとの連動や、ネット上とは異なり実際に本を触れる利点を活かしたサービス、高齢化社会に向けたサービスなどが上がるのかな、と勝手に想像していたのだが、学生と接していて面白いのは、自分にない考えを持ってくるところで、やはり、自分の想像とは全然違うものが上がってきたのだった。
アート専門書店、児童書専門店、音楽専門書店、手紙関連書籍専門店、恋愛関係書籍専門店など、個々にはかなり異なるアプローチだったけれど、ざっくりまとめると
「専門書を扱い、関連する物も販売。イベントなども行い、カフェやバーなども併設するスペース」
という提案が多かったのが特徴的だ。

昨年度も今年度も少人数のクラスだったので、これが世間一般のメジャーな声とは言い切れないが、書店に対する考え方の変化が表れていると感じた。

私(40代、地方都市出身)からすると、書店は情報の源であり、知識や知性を得るための場所。書籍は現実の生活では知り得ない世界を見せてくれる新しい世界への入口だった。自宅にいてもテレビや新聞があったが、それよりもさらに踏みこんだ世界、大げさに言えば「知を得るための場所」だった。
(今考えると、公立図書館という選択肢もあったのに行ってなかったことは悔やまれる)

知識を得るということに対しても、今よりステータスがったように感じる。
友達に言わせると「頭がいいとか知識があるとかが“お洒落”なネオアカ(分からない人はググって下さい)の世代なので、見せかけの知性」だそうだが、それでも、だ。

話が逸れそうなので、もう一度まとめると、書店は知性の象徴、という意識があった。

現在の学生(20代)からすると、書店に対するステータス感はほぼないに等しい。
聞けば、ほとんど書店には行かないそうだ。
言われてみると、自分自身もなかなか書店に足を運ばなくなった。
欲しい本があればオンラインで注文する。
そうでなくとも、情報はネット上に溢れている。
美術書など物としての書籍を楽しむ特殊な場合を除き、書店でなければ、という必然性が薄れている。

学生が提案してくる「専門書店」の目的は、同じ目的や趣味の人々が集まることのできる共有空間であって、その中で販売される書籍は空間アクセサリーの一部でしかない。
書籍販売をテーマにした課題だったが、見えてきたのは、彼ら、というより自分も含めて私たちは、同じ感覚を共有できるスペースの必要性を感じているということだ。

100年くらい前のヨーロッパだと、主催者のマダムがいて、マダムが気に入ったアーティストや文人が招かれるサロン、あるいは政治的な主義を共にするメンバーが集うクラブ、結社、みたいなものだろうか。
そこまで濃厚、過激なものではないのだろうけど。

同じ目的や趣味の人々が集まる、というだけなら、既存の、例えばアートが好きならばギャラリーがあり、音楽ならばミュージックショップがありフェスがあり、料理が好きなら料理教室、語学をやるなら語学教室、編み物クラス、手芸工房などなどが存在している。

だが学生が提案するスペースでは、ワークショップやカフェスペースなど、もっと会話やコミュニケーションを楽しむ要素が盛り込まれていた。
現実にこうしたコミュニケーションを促すスペースに需要があり、不足しているのであれば、これは1つのビジネスとしてありうることなのだろう。

その場合、書籍は必ずしも必要不可欠な要素とは言えないのだが、そのコミュニケーションのテーマを表す媒体として、書籍の形態は分かりやすい。
例えば文具好きの人々が文具について語りたい場合、文具だけが揃っていても、単に文具店と扱われるだけだが、文具に関する書籍が並んでいることで、ある程度時間を割いて、文具に関する知識を得る場所だと認識できる。

知を集成した書籍形態というより、人々にその意識を形あるものとして示す、いわば看板的な存在としての書籍形態。こうしたものが必要とされるのであれば、書籍の、プロダクトとしての形、重量、見かけ、そんなものも変化していくような気がする。
by dezagen | 2014-01-14 07:09 | その他